2026/7/24
【木下 浩良|歴史研究者(前篇)】

目次
1.空海の母が暮らした表玄関「慈尊院」と女性の信仰
2.180本の「町石」が導く曼荼羅の世界
3.大門から広がる神仏習合の聖地
4.現代に生きる「体験型」の教えと未来への継承
5.宇宙へ届く祈り? 現代企業が建てる「モダンバージョン」のお墓
6.前田利家から織田信長の娘まで。石塔に刻まれた「家族の絆」
7.奥の院の近衞家の足跡
8.56億7000万年後の約束。空海が今も「生き続ける」理由
文化継承や創造に関わる方々をお招きして、お話を伺う特別企画「語らひ人」。
第14回は歴史学者で高野山大学密教文化研究所などで教鞭もとられている木下浩良先生です。
高野山へ赴き木下先生のご案内のもと、麓の「慈尊院」から山上へと至る道を辿りました。
かつて藤原道長も歩いたその道程で、空海が仕掛けた「体験型の教え」を紐解きます。
本企画「語らひ人」では初となる、前篇(近衞家墓所巡り)と後篇(対談)の2回にわけてお届けいたします。前編は弘法大師空海の御廟がある奥の院のすぐそばにある近衞家の墓所を巡ります。
空海の母が暮らした表玄関「慈尊院」と女性の信仰
近衞: 高野山へやってまいりました。まずはふもとの「慈尊院」からのスタートですね。
木下: はい。ここは空海さんのお母様がいらっしゃったところで、高野山の表玄関と言えます。ここの「九度山」という地名は、空海さんが月に9回お母様に会いに下山したからと言われていますが、私は物を煮炊きするかまどという意味の「竈(くど)」から来ているのではないかと推測しています。古来より炊事場は神聖な場所とされ、特に竈(かまど)のことを京都では親しみを込めて「おくどさん」と呼んだりしますから。元々火の神様を祀ってたんじゃないかなと思うんですよね。
かつては向こう側にある紀ノ川に橋が架かっておらず、船で渡ってきて、ここから山へ登っていきました。ここに「下乗石」というものがあり、これより先は乗り物から降りて歩いてください、という意味になります。道長もここに来て、おそらく休憩してから出発したと考えられます。
近衞: 当時の皆さんは、ここでまずお参りをしてから登り始めたのですね。
木下: そうです。また、ここは昔から「女人高野」と呼ばれ、女性の信仰を集めてきました。高野山は女人禁制だったため、女性はここまでしか来られなかったのです。お堂には乳房型のものがたくさん奉納されており、乳がんや婦人病などに対する祈願が行われていました。そして、お堂の中には国宝の弥勒菩薩(みろくぼさつ)がいらっしゃって、30年に1回くらいしか御開帳されない貴重なものです
木下浩良氏(左)/ 近衞忠大(右) 慈尊院にて


慈尊院の門のそばに今も残る下乗石